碆の手の鯨塚

昭和32年頃の鯨塚―隣王院殿法界全果大居士― 丸石網代は「丸石(大きな岩)から大早津川西鼻まで二〇九間 の巾で沖合四一六間、横目村君吉右衛門の持網代」と記録されております。

 天保八年六月二十一日突如、大鯨(ゴンドウ鯨)がおかをめがけて突き進んできました。 網の連中はあれよあれよと言うのみ、今度はぐるりと沖合へ出ました。「あの鯨がとれたら」 と話すものの巨大な姿を見てびっくりするだけで手が出せません。ところがどうしたことでしょう。 またくるりと向きをかえたかと思うとみるうち浜辺に近づきそのまま砂浜へ乗り上りました。 ふしぎなことですが事実です。さあ村中が大騒ぎとなりました。

 村君吉右衛門は十二人の網子をつれ六丁櫓を仕立てて城下の役所へ馳けつけました。 「どれほどの鯨か」「へい四〇ぴろはありましょうか」「そりゃ少し大きすぎぞ尾ヒレが ついているのではないか―」とすかさず網子の一人「いえいえ頭からしりっぽまでで、ヒレ は入れておりません」一同大笑い。「所中で処分せよ、骨の一部を埋め供養を忘れるな、 尚又何分の沙汰は後日―」と申し渡されました。 帰りの大良鼻で「ノロシ」の煙を上げると村中の者が解体を手伝いました。天保というと 昔のようですが幕末のこととて、言い継がれて昨日のように具体的に伝えれております。 何一つ捨てるものがなかったそうで、骨も油がとれたそうで、その油のとり方は小さく きざんだ脂肪、骨を釜の中に入れまぜると釜の中ほどに油がたまり貝杓子ですくいとり 別の容器に油を入れるのです。この時の油は明治になってもウンカの駆除に使った家がありました。

 さてその翌年の暮近くだったといいます。代官が七右衛門の家を訪ね、春山公の手になる法号 の書と詞堂科百目と文書を添えて持参しました。文書には「詞堂百目年忌の節寺ニ而可致事」 としたためてあったそうです。この文書は近くまで宇都宮家(都屋)に所持されており鱗王院殿 法界全果大居士の位牌もありましたが、今はクリダシと金剛寺の過去帳が皆さんに知られているだけ です

 なお法号は春山公の働きかけで龍華山の丈嶽和尚さんがつけられたものだそうです。

 村人は「碆の手の鯨様」と呼び決して呼びすてにしません。天保の大飢饉のさなかに 村人をよみがえらせた為に、当時から感謝の念をこめて呼ぶのが今に続いたものかもしれません。

【出典】−明浜こぼれ話―郷土史片々録−
    著者 久保高一

現在(平成23年)の鯨塚